変易と不易 その3〜もう一人の自分〜
しばらくは、孤独に辿り着く旅路だった様に思います。
逢えども逢えども、望む人とは逢えず。
かつての私が望む人とは、言わば、もう一人の私でありました。
それも、良い方向に変化し、これから船を漕ぎ出す力に満ち満ちている様な、もう一人の自分との出逢い。
そうすれば、力を合わせて世の中に挑んで行くことが出来る。
その意気揚々とした二人を見れば、次から次へと志や倫理観、価値観を共にする仲間が引き寄せられて来ると心から信じられるような、大きな大きな見えない力。
一人と二人は全然違う。
一人は修行、二人になって初めて挑戦する資格を得られる。
されど、自分が至らぬものですから、私は、私のような人々と逢い続けては鏡を見る様に、私の中にも存在する相手の醜さを露わにしては、自分の中のそれを打ち消す努力を重ねる日々が続くのでした。
そうして行くと、段々と知り合いが少なくなって行くのです。
それを、かつての私はとても寂しく感じました。
大袈裟ですが、世界でただ一人になるのではと、不安が募りもしました。
しかし、私が過去を共に過ごした友人や知人を、私が行きたいところに無理矢理連れて行くなど出来ないことです。
人は直ぐに被害妄想に陥るので、勘違いしがちですが、
考えてみれば、私から皆んなが離れているのではないのです。
私が皆んなの居る場所から離れて行っているのだと理解したのです。
それまでは、私は、私を取り巻く何もかも変わることなく、ただ悠々自適に暮らせるお金だけが手に入る様なことを夢見ていたのかも知れません。
私はこの平和な日本で、平凡に過ごさせてもらう内に、分別も、犠牲も、責任も分からない人間になっていたと言うわけです。
やがて数年を経て、寂しさも消え、私の中の孤独という概念にも変化を及ぼした頃、孤独は良き相棒となっておりました。
孤独を友とした時、私の心の中に、強い私、かつての私とは別人格の私が生まれて、私にあれこれと指示を出す様になったのです。
空想ではなく、かつての私なら、こう選択していた、こう答えていた、こう躱わしていた、逃げていた、黙ってしまっていた等、かつての私の反応と、いつの間にか変化した今の私の反応が、誰かと接する度に、何毎か申す度に、二人の私が同時に脳裏を走るのです。
私は、どう変わったのか。
私はそれを理解して、成るべく姿に変化したのだと気付いた瞬間でした。
私に、最良の友が現れたのも、ちょうどその頃でした。
面白いもので、出逢いたいと渇望していた頃には出逢えず、出逢えた頃には、孤独を友とし、このままでもそれなりに良いと割り切って楽しんでいた頃に訪れた出逢いによって、ようやく私は、まともな人間になることが出来たのです。
追えば逃げ、逃げれば追ってくる。
この経験から、そう思ったこともありましたが、深く思慮すれば違うと悟りました。
孤独を恐れない私こそが、本当に友を必要としている時だったと言うことなのです。
孤独を恐れていた頃は、友に孤独を癒して欲しかったというのが本音だったのでしょう。
だから出逢えなかった。
出会う為には、孤独と向き合うしか方法はなかったのです。
そう考えれば、自分の勝手な視点で真実を曲げて、世の中をひねて見るのでは無く、既に私は真実の中にいて、しかも、それらは驚くほど愛情に溢れていると理解すれば良かったのです。
老子で語られる処の「道(タオ)」です。
そもそもこの宇宙は、愛と繁栄に満ちていて、誰も私を小さく留めよう等としていないし、まして私の飛躍や豊かさを応援することはあっても、邪魔するようなものは、そもそも存在していないということです。
邪魔しているのは、宇宙の法則にまで頑固に逆らって、上手く行かない事を信じる、私自身の「我(ガ)」の強さだったのです。
凄いと思いませんか、皆さん。
皆さんが上手く行ってないと思っているとしたら、皆さんは宇宙の法則を捻じ曲げる力を発揮しているということで、それって既にスーパーPowerだということ何ですけどね…..。(宇宙に勝っちゃってますから)
真実を経験から知れば、後は自由自在です。
神は在(い)て、貴方がそうなのです。
サイババはかつて、私は神の代理人だと言い、沢山の信者に教えを施しました。
サイババはインド国内の多くの人に聖者として認められている指導者で、数々の奇跡を起こした人物としても知られています。
信奉者が国内外に数百万にまで膨らむと、サティヤの講話をつづった本が何カ国語にも翻訳され、不治の病を治すといった数々の奇跡が人々に知られるようになり、サイ・ババの名前は世界中に知られるようになりました。
サイ・ババの教えは愛と神を中心とするもので、父なる神のもと人類は皆兄弟であり、すべての存在には神が内在しているがゆえに、すべての人を等しく愛し、助けるようにと説いています。
ある時、インタビュアーはサイババに対して、
「貴方は自分を神の代理人だと言っていますが、本当ですか?」
と問いました。
サイババは、
「そうです」
と答えました。
インタビュアーは、こう続けました。
「貴方が神の代理人なのであれば、私は何なのですか?」
サイババは答えます。
「貴方も神の代理人です」
そして続けて、こう言ったのです。
「違いは気付いているか、いないか。ただ、それだけのことです」
どうでしょうか。
皆さんには、サイババは頭のおかしい狂人だ思いますか。
それとも、真実について誤解を恐れず啓蒙している君子だと思いますか。
人は科学と発明によって、便利で豊かな生活を手にしました。
同時に忘れてならないのは、人は道徳と宗教によって、生きる強さと、心の豊かさを手にして来たということです。
日本の神道は、武士道として精神や作法のみ伝達された為、宗教に属す教典がありませんから、日本人は宗教=マインドコントロール=悪と考え嫌悪感を抱く人が多いですが、それは無知から来る恥と知るべきでしょう。
他国を見渡せば、数多(あまた)の国々で、人間教育を司ってきた存在は、それぞれの民が信仰する宗教の役割りだったのですから。
成功を志した若かりし日の私、その片鱗と思えた最初の経験は、圧倒的に無知なる自分への気付きだったのです。
そこで、かつての私が最初に学び、身に付けたこと。
それは、
曇っているのは、いつだって私の目だった。
疑っていたのは、いつも私自身の心だった。
袋小路に陥ったのは、私があまりにも無知過ぎたから。
それが、あの頃の若い私が、修行に挑んだ経験から得た、真の知識だったのです。
次回に続きます。
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