
変易と不易 その4〜「線」で追って行く
このブログというもの、書くべきタイミングは、自然と感じるものなのか、私はふと筆を取るのであります。(実際は担当者にLINEで長文を送っております)

前回を書いてから、だいぶ間が空くため、続きのようで続きではなくなります。
お題の「変易と不易」に、いつ結びつくのか、読み返しながら自分でも分からなくなりました。
ですが、お題云々よりも、このブログを読んでおられるのは、見知らぬ不特定多数の方々では無い為、私と皆さんを繋げている念波(見えない何かの感覚)が、私にブログを書かせているのだと思う処であります。

これまで私は、私の若き日のエピソード(物語と気付き)を書き記しながら、大切な事は出来事から紡ぐ結果ではなく、出来事から紐解く真理であったとお伝えしたいのです。

私も含め誰もが、まだ真理に暗い頃というのは、何事も「点」で見て、「点」での出来事で判断し選択してしまうので、その瞬間では正しい判断のように感じても、跳ね返ってくる結果は、未来では望むものになっていないことが多いものです。
しかし、年を重ねるに連れ、自分の過去から学ぶべく分析するに連れ、何事も、現在から未来に向けての線上に存在する途中過程でしかないと気付きます。
物語は、いつでも途中、途中の繰り返しであり、死が迎えに来るまで完結しないのであります。

つまり何事も「線」で未来を見通し(予測)て、遡って「点(現在)」での選択をして行かないと、未来に運気の追い風が吹くような事象に繋がって行かないわけであります。
やがて「線」で未来を追う目線が身につく事により、判断を誤らない自分を見つけることでしょう。
すると、描いた「線」の進む先が、現状とは違う次元に少しづつ上がって行くことに気付くのです。
最初は、「線」が一周回って「円」になり、ぐるぐるぐると同じことの繰り返しに留まっているように感じるのですが、同じように見えるが、同じではないことに気付くのであります。
これを「螺旋」と言い、ちょうど螺旋階段を上がっている自分をイメージしてもらうのが理解しやすいかも知れません。

「線」の先は、「円」だと思い込んでいたものが、実は「螺旋」という高さを取り込んだ渦巻き上の概念が存在しており、それは時空の竜巻となって、自分を今いるレベルから押し上げる装置の様な役割を担っておるのです。

竜巻と表現してしまいましたが、実際は何度も何度も、人生と言う道を歩み続けることの繰り返しにより、少しづつ見える景色が変わってくるものです。
つまり、螺旋階段は目の前の階段だけ見て、上げって行くと、同じ事を繰り返しているように感じますが、視野を広げると、景色の見え方が変わってくるわけです。
その理由は、螺旋階段を上がる程、見える景色が下から上に変わって行きます。

同じ景色でも見え方が変わると、もはや違う景色であり、今まで見えていなかった別の一面を知れるということでもあります。
これを「視座」が変わると言います。
ここまで経験すると、人生の迷いは随分と無くなって行きます。
景色が良く見えると、迷わないものなのです。
下から上は見えないが、上から下は良く見えるもの。
視座が高いと、その先の道が行き止まりか、抜けているのか、高い場所から、よく見渡せる為、正しい判断を行い易くなるのです。
「点」→「線」→「螺旋」
自分は、物事の見え方や、捉え方、判断の下し方が、3つの概念の内、どれを頼っているか。
更に「螺旋」から先も存在していますが、それはまた別の機会に。
先ずは、「点」から「線」の目線に変えて行く為、線はどの様に時を辿っているのか。

その宇宙の真理に基づく、自然の法則を知らねば、「線」を引く先を誤ってしまう為、また「点」の判断に逆戻りしてしまいます。
つまり、人生を良い方向に導く道は、どの線の先にあるのかを知ることを意味しており、変易と不易はそれを知るのに重要なヒントを与えてくれるのです。

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