中庸と時中
前回の告知通り、易経その②というお話しにあたります。お付き合い宜しくお願い致します。
易経の教えには幾つかの基本がありますが、前回お話したのは「陰」と「陽」の交わりによって、この世の様々なものは産み出でて、発展し繁栄するということ。
そして、その陰と陽の交わりを「太極」と呼ぶこと。
そして現実社会で、性別も性格も、価値観も能力も。立場も世代も異なる人間同士が、太極を行うとするならば、それを可能にする秘訣は、「中庸」にあるというお話しでした。
今回は、太極から「時中」までをお話したいと思います。
皆さんは、「時中」(じちゅう)という言葉は耳にした事が無いのではないかと思いますが、如何でしょうか?
逆に、「時流」という言葉はよく耳にし、また言葉として使うこともあるのではないでしょうか?
中庸と中立が、真逆の意味であるように、「時中」と「時流」も、また真逆の意味であります。
「時流に乗る者、やがて時流に攫(さら)われる」
と申します。
要は、流行(はや)りと廃(すた)りに、永遠に翻弄されながら生きると言うことであります。英語で指し示す言葉は、トレンドであります。
勿論、いつの時代も流行(りゅうこう)は存在しており、それは流行り廃り、また流行りと、周期的に繰り返すものであります。
では「時中」はどう言うものかと申しますと、「時を当てる者」という意味であります。「中」(ちゅう)の字は、訓読みで「あたる」と読みますが、この意味にあたります。
では何を当てるのかと申しますと、それは「時」(とき)でありますが、これはタイミングの事を指しているのであります。
つまり、何でもタイミングを間違えると、上手く行くはずだったことも運ばなくなりますし、逆にタイミングを間違えなければ、希(のぞみ)薄い縁談であれど、形に成ることもあります。
「待てば海路の日和あり」
とは、何を待っているかと言いますと、航海に適した天候を待っておるのであり、それが物事が上手く運ぶタイミングであると言っているのであります。
つまり時中とは、時流という自分とは無関係の、世の中のトレンドに上手に乗る事により、そのおこぼれを預かろうという「棚ぼた」的なものでは全くなくて、上手く行くタイミングを、その次節を、自分自身で見抜く洞察力を有しているということなのであります。
つまり身に付けてさえしまえば、間違えることは無いのであります。
時流は人任せ。
時中は自分次第であります。
よって、
「時中を当てるもの、当て続ける」
と言われるのであります。
「時流」はよく耳にすれど、「時中」はさっぱり聞いた事が無い。と言う世の中であれば、それは今の世が、「おこぼれ」や「棚ぼた」に期待して生きている様が見て取れるという事であり、危惧すべきことであります。
世の中、自分を磨き進化させるという考え方の人物が減って来ている為、何か美味しい話にあやかりたいと思ってしまうのであります。自分が素晴らしい人生を送れるかどうかは、自分以外に掛かっていると無意識に信じているのであります。
自分が成功するかどうかに、自分は関わっていないと言うことでありますから、もはや自分の人生を歩んでさえいないと言うことであります。
従って、様々な分野で、世代で、中身は詐欺の、外見は美味しい話が飛び交っており、その事実もニュースも見て知っておるはずであるのに、子供に教育を行う立場のいい大人が、この様な詐欺話に飛び乗ってしまうのでありますから、この国に、現在、君子を育成する環境が多くあるとは到底思えないと言うことなります。
教育が劣化すると、世は退廃いたします。これは悲しいかな、この日本には既に訪れております。
これを退廃から、荒廃まで行ってしまいますと、もう立ち直らせることは不可能となりますから、そう成り果てる前に、大人が学ぶ環境を増やす必要がござます。
今、政府も「学び直し」等と、民にスローガンを投げ掛けており、上辺だけ見れば良いことを言っているように聞こえてきますが、これは老齢年金の支給額が、それだけでは生活費として不足している状態なものですから、学び直して再就職しましょうという目論見が透けて見えるのでありまして、ここで危惧しておることとは、中身が違うのでありまして、残念なことであります。
では、無知であるが故に、時流に依存するのではなく、自分自身の内なる自分に、時中を与えようとすれば、いったい何をすれば良いのか。
次回は、変易と不易という観点からお話ししたいと思います。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
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