中庸と中立
中庸の感覚を掴む上で、よく似た意味合いであるように感じる「中立」という言葉と比較してみましょう。
中庸と違って、中立は一般社会生活の中で、比較的よく使われているのではないでしょうか。
皆さんは、どの様な場面で、「中立」という言葉を使っていますか。
「私は中立だから、どちらにも肩入れできない」
「私は、この案件に対しては、中立の立場を通させてもらいます」
「我が国は、永世中立国としての立場を保ちます」
中立は、中庸の逆だと言えます。
どちらにも肩入れしない。
どちら側にも付かない。
中立の姿勢を貫く理由は、その事案に対して「責任」を取れないから。
もしくは、責任を取りたくないからです。
中庸は逆で、事案に対して自ら首を突っ込んで行きます。
自ら「責任」を背負って、「解決」という成果を取りに行く行為です。
敢えてリスクを取ることが、中庸を行う上で必要であると言えます。
では何故、敢えて責任を背負ってまで、リスクを負ってまで、君子は中庸であろうとするのでしょうか。
その答えは、世の中の大多数が小人(愚人)であり、中庸という勇気ある行いをできる人が、とても少ないことを君子(賢人)は理解しているからです。
ですが誰かがやらねば、世の中は諍いや、争いが絶えなくなると考えているからです。
そうならない様に、君子はお節介にも、中庸を取りに行くのです。
お節介が功を奏して、問題が解決しても、それは所謂(いわゆる)仕事の成果ではありませんから、報酬が払われるわけでも、社会的地位が上がるわけでもありません。
正に、頼まれてもいないのに勝手にやったこと。
「お節介」と言う言葉が一番お似合いです。
せいぜい、「助かったよ」とか、「ありがとうね」とお礼を言われ、少しの感謝を頂くだけのことです。
人によっては、わざわざ余計な事に首を突っ込む変わり者だと、揶揄されることすらあるかも知れません。
更に失敗すれば、問答無用で、「より問題をややこしくした」とか、「悪化させた」とか言われ、問題の原因そのものに責任転嫁されかねません。
やって成果を出しても、大きな見返りも、実入もなく、失敗すれば、誹謗中傷の的になりかねない。
しかし人間社会において、人と人との摩擦は付き物。
いつだって問題の火種は、そこかしこで火事になる手前で燻っているのは確かです。
現実世界での「火の用心」は、消防関連の仕事として、明確に従事者が居てくれるお陰で、常に被害は最小限に抑えられていますが、人間同士の感情が生み出す「火の用心」には、誰かが心を配っていない限り、解決することは勿論、気付くこともままならないのです。
皆んな一人で生きられている気になっています。良い気になって…。
この豊かさが日本に在る理由も知らずに、こんな幻の豊かさが間も無く消えることも知らずに、ただ当たり前の様に消費するばかりの私達。
そして、こんなにも他人に興味が無くなってしまったら。
こんなにも自分だけで生きて行けているなんて思ってしまったら。
大火事が近くで起こっていても、自分の家に飛び火するまでは、知らぬ存ぜぬを当たり前のように突き通すような気風になってしまうでしょう。
永い人生で自分が当事者になり、助けを乞う時も有るなどと、少し深謀遠慮が利けば分かりそうなものですが、助けはしないが、助かりたい。
恥を恥とも思わぬ、厚い面の皮が、人の清き霊性を覆い隠してしまう前に何とかしたいものであります。
だからこそ君子は、お節介を続けて行く。同じ君子にしか理解されない尊いこの行いは、「陰徳」と呼ばれ、人が成す最も神に近い行いでありまして、大きな大きな人徳であります。
逆に、「陽徳」と呼ばれるものも在りまして、これは小人も君子も、誰でも良いことをしていると、意義あることをしていると簡単に分かる行為のことであります。
例えば、親孝行であるとか、地域の奉仕活動であるとか、被災地のボランティア活動であるとか、寄付であるとか、また、仕事自体も当然、世の為になっているわけですから、自分の仕事を誠心誠意、一生懸命にやるとか、そういうことが「陽徳」でありますが、それは正しく一定の評価を受けているといった意味では、あくまで代価と報酬の関係性であります。
しかし「陰徳」と呼ばれるものは、自然が与える恵みと同じで、そこに認知や見返りという前提が無い。
下手をすれば、巻き込まれて被害に遭うかも知れない。
私達は、秋には実りを与えてくれる木々であっても、今、材木が必要となれば平気で、木自体を切り倒すことも何とも思いませぬ。
考えてみると、木は木として生きている間、常時、酸素を生み出し、春には花で人の心を癒し、夏には強過ぎる日差しを遮り、秋には果実を与えてくださるのに、人の都合で切り倒された後でも、文句も言わずに木は材木に姿を替えて、次は人に便利さを与えておるではないですか。
このような御技(みわざ)は、モノ言わぬ木にはできても、人には中々できないものであります。
このような「有るが無い」と言いますか、「無いが有る」とも言えましょうか、この様な人を育む愛の現し方というものを、人が行った場合の行動は、正に「中庸」の一言に尽きるのではないかと思うのであります。
ということで、中庸と中立は逆であります。
今、中立と言う言葉をよく聴くと言うことは、多くの人が責任を恐れ、遠ざけていると言うことであります。だからこそ、他人と上辺だけの表皮をなぞる様な、こそばい言葉遊びを交わし、心に通う言霊ひとつ探すことも困難であります。
特にSNSといった様な、不特定多数から匿名で心無い意見に晒されることを鑑みると、尚更、賛否両輪を招く発言を躊躇する様になります。
結果として、誰からも満場一致で誉められる様な投稿ばかりしておる内に、やがて無難と媚びに塗(まみ)れた思考になって行くことは、至極当然のことと言わざるを得ません。
時間と空間を縦横無尽に超えられる情報通信技術の進歩は、言うまでもなく素晴らしいのですが、世の中の表裏で言うところの、表面(経済)ばかりを飛躍させてしまい、思慮深さであるとか、人を慮(おもんばか)る心の寄り添いであるといった、人の裏面(人徳)を蝕(むしば)んでしまっている様に私は感じておりますが、これはIT系サービスを創出する人間側が功利主義に塗れ、ITの可能性を随分と狭めているからだと思えてなりません。
この様な背景も相まって、世の中、猫も杓子も中立、中立、中立であります。しかしそれは、責任を取りたくないことを、中立と言う言葉でカムフラージュしておるだけでありまして、実際に中立なんたるかを理解しておる君子は、僅かばかりしかいないと思うのであります。
では、中立とはなんぞや。
中立の指し示すところの真意とはなんぞや。
これをお話しするにあたり、例えに活用させてもらいたい国がございます。それはスイスという国であります。
日本人にとって、スイスと聞けば、自然溢れる国、チョコレート、そして戦争に加担しない平和な国。
このようなイメージを持っている方が多い様なのですが、スイスは決して日本の様な、平和ボケと言う言葉が似合うような国ではありませぬ。
スイスでは、全国民参加で頻繁に戦争訓練を行なっておるのです。
頻度で言うと、日本の避難訓練よりも頻繁に行っておるのです。
家に武器庫が在る民家など、スイスでは何も珍しいことではありません。いつでも戦争突入する覚悟の上で成り立っている平和なのであります。
それはそうであります。
日々、戦争に備えて全国民が戦闘訓練しているような国と、よほどの事情がない限り戦いたくないものです。そして、この意識の高さがスイスの平和を守っているのであります。
何が言いたかったかと申しますと、スイスは永世中立国だと言うことであります。
つまり中立とは、どの国の戦争にも加担しない代わりに、自国が戦火に見舞われた時は、逆にどの国からも助けは来ないという事を理解しているのであります。
手を貸さない代わりに、手を借りない覚悟を持っているということが、お分かり頂けますでしょうか。
これが真の中立の姿だと言うことを知ってもらいたかったのです。つまり、今の日本人、中立主義で生きるならば、生きるで、自分を自衛できるだけの知識武装をし、貯蓄をし、自己生存能力を高めているかと言うことであります。
平常時にだけ、中立を掲げ、困ったら政府に実家にと頼るようでは、中立が聞いて呆れると言うもの。
責任の名の下、他人に巻き込まれたくないのであれば、自分は強くなければ話にならないのであります。そしてそれは孤立して戦う孤高の強さであり、自立とはまた異なるのであります。自立とは、自立した人間同士で認め合い、必要とし合い、助け合うものでありますが、孤高の孤立の強さと言うものは、孤立無縁に近付いて行くものであります。これは強さと言うよりも、硬さ、頑(かたく)なさという意味で、所謂、頑固者の強さのことであり、生きる力はあっても、それが幸せな人生には成りにくいものであります。
スイスは国の方針として中立の方針を取りました。それにより、国民一人一人が強くなったのであれば、それは良い政策であったと言えるでしょう。国民の危機に対する一致団結の結束もありましょう。
しかし我が国の中立の気風は、スイスのそれとは違い、言うなれば「中途半端な立場」これを略して「中立」と言っているようなものです。
我が国は、陛下を中心に一家国家の封建社会として、永く武士道に習い歩んできたサムライの末裔であります。人に関わってなんぼの日本人。親切でお節介がモットーであります。
中庸が無形文化遺産として認知されるには、まだまだ人間全体のレベルが底上げされねばならんと存じておりますが、いつかそんな日が来た時に、その明確な中庸の概念は、日本人から伝来したものだと、世界で語られたいものであります。
今後、令和を歩み続ける日本人にも、昭和の中庸人を垣間見る瞬間が有りますよう、また、中庸そのものの存在を、現代を生きる、仁義ある武士の佇まい、振る舞いから感じられる同胞が増えて行くようにと、INCRコンサル協会の存在意義となるものです。
ありがとうございました。
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