中庸と太極
今回のテーマは、中庸を五経四書の一つである、易経に当て嵌めてお話したいと考えております。
その中でも、易経が教えてくれる基本中の基本、「太極」に着眼しております。
先ず易経なんぞや?という所からですが、易経の教えは、この宇宙に存在する全ての事象は、「陰」と「陽」に分かれており、陰とは、暗くて弱いもの、陽とは、明るくて強いものであり、相反する様相であると言うのです。
これだけ聞くと、陰は愚かで、陽は利発だと言う、所謂(いわゆる)勧善懲悪とした印象を持ってしまいそうですが、実はこれが、そう単純な話ではなく、事象を2つ並べると、その時折で、陰と陽は入れ替わると言うのです。
例えば、試しに大きな事象を2つ、「天」と「地」を取り上げると、天が陽となり、地が陰となります。
しかし、「大地」と「森」という組み合わせにすると、先程まで陰であった「地」(大地)は、陽に取って代わり、森が陰ということになります。
勘の良い方は、もうお気付きになったでありましょうが、「森」と「木」を取り上げれば、次は「森」が陽となり、「木」は陰となります。
同じように、男と女では、男が陽で、女は陰ですが、母と息子ならば、男女でも母が陽で、息子が陰となりますので、総じてまとめるならば、誰もが陰にも、陽にも成り得ると言うことであります。
これは成る程と言うもので、誰しも相手によって、無意識に言葉使いや振る舞いを変えることがありますが、謙(へりくだ)った振る舞いをしている時は、自らが陰の立場で、アケスケに発言している時は、自らが陽の立場であるからと考えれば、それこそ自らを省みて作為に満ちておるわと苦笑しながらも、易経、これは正に森羅万象に背いておらぬものと思えるわけであります。
続いて本題の一つ「太極」でありますが、これは陰と陽が交わった状態を指している言葉でありまして、非常に縁起が良いと言いますか、福音を思わせるものであります。
と言いますのも、陰と陽とは、交わらねば発展、繁栄しないと易経は教えているのであります。
元々、陰と陽は、ある意味、対極の位置にありますので、陰は陰同士、陽は陽同士の方が居心地が良いと言うことでありまして、私達も、友人の間柄を紐解いてみれば、同じような立場、同じような嗜好、同じような価値観の人間を好んで側においている傾向にあります。
しかし、それでは役割りが被ってしまい、相乗効果が期待できない為、世の中に役立つことが起こらないと易経は言っておるようでありまして、言われてみると、空と大地は正反対でありますが、相反する天と地の交わりと言えば、天は陽を注ぎ、雨を降らします。
大地はそれを受け止め、林なり、森なりが育っていると考えると、正にその通りであるなと納得なのであります。
天と地と、どちらが偉いかと言う話になれば、まぁ陽と言うだけあって、天なのかも知れませぬ。
天が地に、陽も雨も注がなければ、大地は干からび、動植物は死に絶えるでありましょうから。
しかし、逆に天があっても地が無ければ、陽も雨も何の意味を成さないとも言えるのであります。
つまり、陰あっての陽、そして言うまでもなく、陽あっての陰なのでありまして、天と地が人間のように、どっちが強いとか、どっちが偉いとかで喧嘩をしなくて本当に助かっております。
そう考えると、人間は、男と女の違いから始まり、肌の色や、信じる神の違いと、事あるごとに差別しており、中々、混じろうとはしませぬが、易経の教えにて世の中が良くなる余地は、少々では足りぬほどあるように思われます。
易経は、この様にも教えております。
陰と陽がぶつかり合えば、陽は傷付き、陰は滅ぶ…と。
男と女の揉めている様を思ってしまったのは、私だけでありましょうか。揉めに揉めれば、力が強く、社会的にも有利な立場である男が勝つのでしょうが、それは痛く、そして寂しい勝利でしょう。
また、その良からぬ噂は、周り回って男の運気を陰たらしめて、再び生気を取り戻すは容易ないこととなるはずです。
女は女で、全てを失って再出発となり、正に死に体といった所。
本当に死ぬるわけでは無いですが、愛し合って一緒になった者同士、もう少しどうにかならんもんかと思ってしまいまする。
易経に習い、常に誰かとおる時は、今、自らは陰か陽か意識をしてみると、人付き合いが少々スムーズになるかも知れませぬ。
相反する陰と陽が混じり交われば、男と女にして子宝に恵まれ繁栄し、天と地にして生命は育まれ、智と力にして文明は発展して来たように、これに異を唱える人はおりませぬが、然るに言うは易し、行うは難しであります。
相反する相手を非難しないだけでなく、受け入れる為の隙間を、物理的に見つける智の徳も必要でしょうし、精神的に受け入れる仁の徳も併せて必要となりましょうから、これは最低限の徳性を納めてなければ、とても実践できる事ではないと容易に想像ができます。
故に、太極は其れそのものが福音と言えるほど縁起の良いことであります。
因みに太極を現すアイコンは、太極図と申しまして、白と黒の人魂の様な模様が合わさり、白黒2つで、一つの円を描いているような柄ですが、誰もが一度は見たことがあるのではないかと思います。
最後に、中庸と太極についてですが、これは太極をもう一歩深掘りし、実学として活学するにあたり、中庸が良いスパイスになると思いましてのことでした。
どういうことかと言いますと、太極は太極図にありますように、陰と陽とが同じ割り合いだけ、均等に描かれておりますが、現実社会で陰と陽の交わりに挑む場合は、私の経験上その様にはまかり通りませぬ。
相反する価値観、能力、性格を持つ相手と、和合して行きたいとなると、先ずは自分と相手の、陰陽の指し示す所を掴まなくてはならぬでしょうし、それをどう太極図に近付けるように、陰陽の中庸を取って行くべきなのか、陽が強すぎると拒絶されても具合が悪く、従ってその言葉使いに言い回しも、誤解の無いよう穏便且つ、言霊の有する母音には、しかと気を使いつつ、匙加減(さじかげん)を測ることが求められるでしょうし、また陰の役回りに徹する場合でも、陰の暗がりに入り込まないよう、呼吸を読んで陽転すべきか、場合によってはいっそのこと、暗がりに落ち切ることで陽転を待つことを耐え忍ぶべきか、常に判断を求められることとなります。
いずれにせよ太極を実践する現場では、自分と相手との間で常に、陰と陽は焔(ほのお)のように揺らめひていて、ひと時も太極図のような模様を示している時はないものであります。
故に中庸、中庸であります。
私は、五経四書の中でも、世の中を観る全体像は、常に易経を通しての線の目線に頼っております。
それ程に易経は、真理を大胆に突いておると同時に、その書き物は驚く程、人生の様々な局面に対して物語りとして記されており、非常にユニークで、敬虔なものであると感じておりますゆえ、次回はその片鱗を感じて貰えるような内容を書ければ良いと思っております。
最後に、易経は原作者が明確でなく古代中国では、幻の賢人「太公望」が記したものと言われたりもしておりますが、これは誇大広告であると誰もが知る所でありますが、その内容には錚々(そうそう)たる賢人が感銘を受けており、有名な所では、儒教の開祖である孔子が、
「50歳までに易経を読み納めれば、決して人生に迷うことは無い」
と言わしめたほど。
是非、このブログをきっかけとして、良質な古典に触れて頂けると嬉しく思います。
まぁ、私の翻訳が余りにも俗っぽいものですから、好みが分かれるかとは存じますが、ご容赦くださいませ。
ありがとうございました。
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